武田信玄に学ぶ情報ネットワーク
日曜の夜、NHKの大河ドラマで戦国の時代の終わりを告げる時代背景の中、『真田丸』が放映されていますが、みなさんは、戦国の武将というと誰を連想するでしょうか。
天下を統一した織田信長という人も多いかと思いますが、武田信玄を思い浮かべる人もいるのではないでしょうか。
風林火山と武田信玄
疾(はや)きこと風の如く、
徐(しず)かなること林の如く
侵掠(しんりゃく)すること火の如く
動かざること山の如し
そして、武田信玄と言えば、あの戦国の世にあって、一度も攻められることがなかったほど、強い武田軍というものをもっていた。
武田信玄はなぜ強かったのか
武田信玄はなぜ強かったのかというと、それはしっかりとした情報ネットワークを持っていたからでしょう。
武田信玄と言えば、『風林火山』ですが、もう一つ、有名なものがあります。
人は城、
人は石垣、
人は堀、
情けは味方
仇は敵なり
武田信玄はこの言葉どおり、その障害において、一度も甲斐の国内に新たな城を築くこともなく、堀一重の館で済ませました。
武田信玄が大切にしたのは、人と人とのつながり、つまりネットワークであり、情報網だったのです。
保守性の強い甲斐という土地柄、当初は土地や農民の支配者が国人領主にありましたが、そんな国人領主の指示を得て、その国人領主の地に「のろし台」をつくり、各方面の情報をいち早く察知するシステムを作り上げました。
それぞれのルートには拠点となる城郭を築き、防衛機能も備えるだけでなく、鐘つき堂もつくり、視覚だけでなく、聴覚でも伝達できる情報システムを作っていったのです。
そして、情報ルートも複数つくり、見落とし防止策もとっていました。
上杉謙信との川中島の戦いでは、謙信奇襲ののろしを受け、兵1万七千を率い、「風林火山」の軍旗のもと、茶臼山城に陣取りました。
まさに「疾(はや)きこと風の如く」です。
全国に張り巡らせて情報網
武田信玄は、商人や山伏に扮したスッパと呼ばれる諜報員を暗躍させ、全国各地の情報を信玄のもとに届くようにしていました。そしてその情報を共有することで、家臣の結束をも図っていきました。
週刊誌が特ダネを「スッパ抜く」なんていう、スッパもここからきているのでしょうか。。。
城攻めの時も、こうした情報ネットワークにより、調略による内応者を募っては降伏勧告を行うなどの采配をふるっていき、それが天下に恐れられる名将と言われるようになった所以です。
武田信玄の強さは、高い情報収集力にあった
このように、盤石な武田軍を作り上げた武田信玄ですが、人を大切にする心、そしてそれによる高い情報収集力、これが武田信玄を戦国時代の名将と言わしめる所以なのでしょう。
いかに情報収集のネットワークをもっているか、複数の有力な情報ネットワークを持っていれば持っているほど、ビジネスにおいても有利ということは、今の時代も変わらないのでしょう。